特許翻訳はなくなりつつある――それでも人間に残される最後の仕事とは?

はじめに
以前のブログで、「特許翻訳はなくなるか?~MTPE(機械翻訳後編集)の現場から~」というテーマについて書きました。このブログですが、実は現在、「特許翻訳」というキーワードで検索順位3位に表示されています。「翻訳 なくなる」というキーワードでは、検索順位10位表示です。
先月から、このブログの閲覧数が急増しています。年度末の終わった4月といえば、知財業界は閑散期に入る時期です。特許翻訳者にとって、特許事務所などからの特許翻訳の発注量も減り、仕事が途絶え気味になり、不安になる時期でもあります。近年はただでさえ、全業界においてAIによる失業に怯えている人が多いことでしょう。「特許翻訳はなくなるか?」というテーマで、今現在(2026年5月)の現場について、具体的な翻訳の例を挙げながら改めてまとめようと思います。
以前のブログを書いたときから、わたしの姿勢は変わりませんが、人間による特許翻訳業務はなくなる、むしろ、実際になくなりつつあると考えています。ただし、「ごく一部の業務を除く」という点については、以前のブログと同様です。
機械翻訳(MTPE、AIPE)現場のリアルタイムな情報
すでに現場では、機械翻訳や生成AIの出力はかなり高精度になっています。昔のように、明らかに不自然な日本語、文法的に破綻した日本語、専門用語を大きく取り違えた日本語が大量に出てくる時代ではなくなりました。むしろ現在の機械翻訳は、一見すると非常に自然です。経験の浅い翻訳者が見ると、「どこを直せばよいのか分からない」というレベルの訳文が出力されます。
しかし、ここにこそ問題があります。
特許翻訳で本当に怖いのは、誰が見ても分かる大きな誤訳ではありません。一見正しそうに見えるが、権利範囲の解釈にわずかな揺れを生む訳文です。
特許翻訳に残る仕事は「訳すこと」ではない
今後、人間に残される仕事は、単に英語を日本語に置き換えることではありません。それは、誰が見ても1ミリの誤解も生まず、誰が見ても同じ解釈になるように訳文を整えることです。これは、一般的な意味での「自然な翻訳」とは異なります。
読みやすい日本語であればよいわけではありません。
流暢であればよいわけでもありません。
専門用語が合っていれば十分というわけでもありません。
特許翻訳では、訳文が将来、審査、権利化、無効審判、侵害訴訟、ライセンス交渉、技術評価などの場面で読まれる可能性があります。そのときに、読む人によって解釈が分かれる表現は危険です。
「こうも読める」
「別の意味にも取れる」
「この修飾語はどこにかかるのか」
「この端部はどちら側を指すのか」
「この構成は同じ部材なのか、別部材なのか」
このような疑義を、翻訳段階でできる限り消しておく必要があります。
opposite は簡単な単語だが、簡単ではない
たとえば、英語の opposite という単語があります。
一見すると、「反対の」「対向する」「向かい合う」などと訳せばよいように見えます。しかし、特許翻訳では、これを機械的に訳すことはできません。
たとえば、
opposite end
であれば、多くの場合、同じ部材の一方の端を基準にして、反対側の端を意味します。
この場合は、
反対側の端
と訳す必要があります。一方で、2つの別々の部材の端面が向かい合っている場合には、
対向する端
と訳す必要があります。さらに、
opposite ends
となると、1つの部材の
両端
を意味することもあります。
つまり、同じ opposite でも、文脈によって、
- 反対側の端
- 対向する端
- 両端
- 両方の端
- 互いに反対側の端
- 互いに対向する端
などと訳し分けの必要が生じます。
これは単なる英単語の知識ではありません。明細書を読み込んで、図面と見比べて部材の配置を確認し、請求項との対応関係を確認し、実施形態全体の構造を理解したうえで判断する必要があります。各意味を図で示すと以下のようになります。

日本語でも、「反対」と「対向」は似ていますが、特許文書では使い分けが重要です。このような違いは、機械翻訳ではしばしば平板に処理されます。しかし、特許翻訳では、この小さな違いが、構成要件の解釈に影響することがあります。
「間違ってはいない訳」が危ない
特許翻訳で難しいのは、明らかな誤訳ではなく、間違っているとは言い切れないが、最善ではない訳です。
たとえば、opposite end をすべて「対向端」と訳しても、文脈によっては意味が通ることがあります。しかし、読み手によっては、「何と何が対向しているのか」と考える可能性があります。逆に、2つの部材が向かい合っている場面で「反対側の端」と訳すと、同一部材内の反対端を指しているように読める可能性があります。
つまり、問題は「辞書的に正しいか」ではありません。
問題は、その訳語を読んだ人が、原文と同じ構造を一義的に思い浮かべることができるかです。
特許翻訳における人間の仕事は、ここにあります。
技術用語の翻訳よりも、一般用語の翻訳の方が難しくなっている
特許翻訳では、かつて「技術用語の翻訳が難しい」と言われていました。
たしかに、専門分野ごとの用語を知らなければ、正確な翻訳はできません。機械、電気、化学、バイオ、ソフトウェアなど、それぞれの分野には固有の用語があります。そのため、以前は、専門用語をどれだけ正確に訳せるかが、特許翻訳者の重要な価値でした。
しかし、AI翻訳や生成AIが出てきた以上、この部分の難易度は相対的に下がっています。
もちろん、技術用語の確認は今でも重要です。しかし、主要な技術用語については、AIがかなり高い精度で候補を出せるようになっています。少なくとも、調べれば分かる用語、既訳が存在する用語、技術分野で定着している用語については、人間だけが圧倒的に優位であるとは言いにくくなっています。
むしろ、これから難しくなるのは、ふわっとした一般用語の訳です。
たとえば、
- opposite
- another
- other
- end
- side
- portion
- member
- extend
- face
- engage
- support
- couple
- direct
といった、一見すると簡単な単語です。
これらは辞書を引けば意味が出てきます。AIも自然な訳語を出してきます。しかし、特許翻訳では、こうした一般用語ほど危険です。なぜなら、これらの語は、技術分野ごとの固定訳ではなく、図面、請求項、実施形態、部材同士の位置関係によって訳し分ける必要があるからです。opposite の例にあるように、このような判断は、単語レベルでは決まりません。図面を見て、どの部材のどの端部を指しているのかを確認しなければなりません。
つまり、AI時代の特許翻訳で難しいのは、専門用語そのものではありません。むしろ、誰でも知っているような一般用語を、権利範囲に誤解を生まない形で、文脈に応じて正確に訳し分けることです。専門用語の訳は、検索すれば候補が見つかります。しかし、一般用語の訳は、文脈を読み違えると、発明の構造そのものを誤って伝える危険があります。
これからの特許翻訳者に求められるのは、難しい専門用語を知っていることだけではありません。むしろ、簡単に見える一般用語について、その訳で本当に一義的に読めるか、その訳で将来の権利解釈に余計な揺れを生まないかを判断できる力です。
前置詞の訳し分けこそ、AI時代に残る難所である
もう一つ、AI時代の特許翻訳で難しくなるのが、前置詞の訳し分けです。
特許翻訳では、前置詞は単なる飾りではありません。部材同士の位置関係、接続関係、作用方向、力の向き、光の進行方向、工程の順序などを決める重要な情報です。
たとえば、英語では一見単純に見える前置詞でも、日本語では文脈に応じて訳し分ける必要があります。
in は「内に」と訳せる場合もあれば、「において」「内側に」「中に入る」などと訳すべき場合もあります。
on は「上に」だけではなく、「表面に」「接して」「対して」などと訳すべき場合があります。
at は「で」「において」「にある」など、程度や位置を特定する語として機能します。
between は「間に」と訳すだけでなく、2つの部材に挟まれた配置なのか、単に両者の中間領域なのかを判断する必要があります。
through は「通って」「貫通して」「介して」「経由して」など、光・流体・信号・部材の通過態様によって訳語が変わります。
toward は「に向けて」と訳せますが、必ずしも到達を意味しません。
into は「内へ」と訳せますが、実際に内部へ入るのか、内部へ導かれるのか、結合されるのかを見なければなりません。
前置詞は小さい単語ですが、発明の構造を決める大きな情報です。
AIは自然な訳文を作ることは得意です。しかし、前置詞が示す技術的関係を、図面、請求項、実施形態と照合しながら、一義的な日本語に落とし込む作業は、まだ人間の判断が必要です。特許翻訳では、前置詞1つで、部材が「上にある」のか、「表面に接している」のか、「内部にある」のか、「間に挟まれている」のか、「経由している」のかが変わります。
AI時代に人間に残る仕事は、難しい専門用語を調べることではなく、こうした小さな語を見逃さず、発明の構造を1ミリもずらさない日本語にすることなのです。

人間に残るのは「保証する仕事」である
今後、AI翻訳がさらに進化すれば、翻訳文を作る作業自体はますます自動化されます。しかし、最終的にその翻訳文を法的・技術的文書として外に出してよいかを判断する仕事は残ります。つまり、人間に残される役割は、翻訳者というよりも、最終ベンダーとして翻訳に太鼓判を押すことです。
この訳文でよい。
この訳語で権利範囲に不要な揺れは生じない。
この表現で技術構成を正しく特定できる。
この訳文であれば、出願人、代理人、審査官、第三者が読んでも同じ理解に到達できる。
そのように判断し、責任を持って納品することです。
AIは訳文を出力できます。しかし、現時点では、最終的な責任の所在を引き受けることはできません。特許翻訳の価値は、今後、「翻訳すること」から「保証すること」へ移っていくと思います。そしてこういった「太鼓判」を押すことこそ、今後の特許翻訳における人間の価値です。
特許翻訳者は減るが、責任を持てる人は必要になる
したがって、特許翻訳という仕事は、たしかになくなりつつあります。少なくとも、従来のように、原文を読んで一から訳文を作る作業は、急速に減っていくでしょう。わたしもまさにこの状況を経験しているさなかにいます。しかし、特許翻訳者が完全に不要になるわけではありません。むしろ、必要とされる人材は絞られていきます。
これから残るのは、
- 原文の技術内容を正確に理解できる人
- 請求項の構造を読める人
- 図面と明細書を対応させて確認できる人
- 用語のわずかな違いが権利解釈に与える影響を理解できる人
- 日本語として一義的な表現に整えられる人
- 最終的な訳文に責任を持てる人
です。
つまり、特許翻訳者の仕事は、単なる翻訳作業者から、法的・技術的文書の品質保証者へ変わっていくのだと思います。
生き残るために具体的にどうすればよいか?
従来の自分の仕事がなくなるからと言って、その周辺の仕事をするようになる人がいます。
一般翻訳業界においては、たとえば、翻訳の評価、ローカライゼーションのコンサル、対象商品のマーケティングなどが挙げられます。しかしながら、特許翻訳業界においては、周辺のことをするのではなく、特許翻訳の精度・品質を最高レベルまで上げる努力をすることをおすすめします。一般翻訳では、翻訳の良し悪しは、翻訳者のセンスだったり、顧客の好みに影響を受けたりする部分がありますが、特許翻訳では、正確・不正確、高品質・低品質、つまり上手・下手を区別することが可能です。要するに翻訳者をランク付けすることが可能な業界です。
周辺業務もそのうちなくなるでしょう。でしたら、本来のコア業務で勝負する、最高ランクを目指す、とうことが賢明だし、いちばん長く生き残れる方法だとわたしは考えます。
まとめ(結局のところ信頼に値する人間力)
AI時代の特許翻訳における、信頼できる特許翻訳者・特許翻訳会社になることや、特許の内容を的確に伝達することの必要性について書きました。では、そもそも必要とされる人材になるために、どのような要件があるのでしょうか?ものすごく個人的に思うことですが、コミュニケーション能力が高い人の価値が高くなるような気がします。
コミュニケーション能力が高い人が求められるのは、どの業界も同じかもしれませんが、「ものごとの伝達」において、大きな力を発揮すると思うのです。
特許翻訳業界も下請け構造が複雑です。上流・下流ときめ細かなコミュニケーションをとる必要があります。ひと昔前まで、職人タイプの特許翻訳者もいましたが、もうかなり少なくなっている気がします。それよりも、顧客の細かいニーズに応えられる人の方が重宝されるでしょう。
余談ですが、特許翻訳において配布されるガイドラインは、主に最終ユーザーである特許事務所で定められるものです。そして、このような特許翻訳における指針は、各特許事務所のこれまでの経験則に基づいている場合が多いです。たとえば、「こう訳したらこのような拒絶理由がきたから、別の訳にしてほしい」といった具合です。
そして、このような指針は、特許事務所ごとに本当にばらばらです。ですので、特許翻訳は、これまで述べてきたように的確であることは大前提なのですが、それ以外では、顧客である特許事務所の選好を考慮する必要があります。このへんは、実際の業務ではかなり大変な作業でありますが、コミュニケーションを上手にとれるスキルがあれば、いろいろと円滑にすすむような気がします。もちろんわたしも、コミュニケーションについては最大限に考慮しています。
あとはやはり、「人間力」でしょうね。顧客は大切な仕事を任せるわけですから、責任をもって高い品質を維持してくれる人でないと困ります。言っているときりがありませんが、高度に訓練された専門スキルがあり、コミュニケーション能力が高くて人間力がある人は、時代や業界を問わず、人々に求められる人材ですね。


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